“Global Leader Story“ vol.14 南章行 (前編)

株式会社ココナラ創業者、取締役会長

 日本で生まれ育ちながらも、グローバルな仕事環境で大活躍するリーダーの軌跡とマインドを発信するグローバルリーダー・ストーリー。

 14回目のグローバルリーダーは、株式会社ココナラ取締役会長の南 章行氏。1975年、愛知県名古屋市生まれ。慶応義塾大学卒、英国オックスフォード大学経営大学院(MBA)修了。住友銀行(現三井住友銀行)でアナリスト業務を経験した後、アドバンテッジパートナーズにて約7年で5件の企業を担当。その傍ら、NPO法人ブラストビート、NPO法人二枚目の名刺の立ち上げに参画。2012年1月に自ら代表として株式会社ウェルセルフ(現株式会社ココナラ)を設立。一般社団法人シェアリングエコノミー協会理事

 今回は中学時代から現在までの海外との接点や英語を使った経験を振り返り、自分自身の力で成し遂げた海外機関投資家との交渉、そしてゲストスピーカーやモデレーターを英語で行うという、南氏ならではのバラエティ豊かな実体験とそこから得た信条などを語っていただいた。今回はその前編。海外ならずとも人生を生きる上でのヒントがここにある。

 

 15歳の時、たった1人で近所の英会話学校の扉をノックした。親の許可もなく、中学3年生の子どもが総額50万円もする学費を払う契約など学校側が許すわけもない。驚く英会話学校のスタッフを横目に、とりあえず書面をもらって「親を説得してきます」と学校を後にしたのを覚えている。なぜ当時、英語を学びたいという強い意思があったのか? ハッキリと思い出すことはできないが、中学の時に学校代表で英語のスピーチコンテストに出た際、話すことの難しさを知ったのがきっかけだったかもしれない。英語ができないと将来は辛そうだぞ、という漠然とした危機感から高校時代は英語を熱心に勉強したが、これがその後の人生に大きく影響をすることになろうとは、その当時は知る由もなかった。

 

就職先から逆算する思い切った戦略
大学受験は数学と英語を武器にして戦う
 

 就職に関しても早熟だった。皆が大学受験の話題をし始めた高校2年生の時、なぜか自分は就職先を考えていた。普通の高校生に比べればユニークな発想だったと言えるだろう。1990年代の前半といえば、日本が世界を席巻していた時期。世界で活躍している日本人や日本企業をテレビで見ながら、海外で働くってかっこいいし、なんとなく自分の性格に合っているような感じがした。そこから引き出された就職先が「商社マン」。高校生にしては割と真剣で、手当たり次第、就職に関連する本を読んでみた。財閥ごとのカルチャーの違いや強い分野などから三井物産にターゲットを定め、志望校はそこから逆算。慶応義塾大学か東京大学が近道であることがわかった。受験科目を調べたら東大はクソ難しそう、一方で慶応義塾大学の経済学部は文系なのに得意の数学と英語で受験できる。まさに、自分のためのような進学先。慶応の経済学部のみに的を絞って受験する人なんて多くないだろう。だから思いきった意思決定をすれば勝算は絶対にあると確信した。予備校に行かず、好きなラグビーを高校3年生の秋まで続け、1日3時間しか勉強しなかったが、この戦略が功を奏して1994年に慶応義塾大学の経済学部に入学することとなった。

 

親友の死とアメリカへの憎悪
自分の人生を変えた悲しい出来事
 

 自分の人生を語る上で避けて通れない悲しい出来事がある。それは高校2年の時のアメリカで起きた日本人留学生射殺事件だ。その被害者となった服部は、入学当初からの親友だった。

 高校に入学したら、自分の他にもう1人、英会話学校に通っているヤツがいた。それが服部だった。彼とは同じラグビー部に所属し、1年のほとんどを一緒に過ごすこととなる。もともとアメリカへの憧れが強かった彼は2年生の時に交換留学を決意。「大好きなラグビー部を休部するなんて、なぜ?」と自分では到底考えられない選択だったが、服部は期待と夢を抱き8月にアメリカ留学に旅立ち、そして10月に帰らぬ人となる。

 彼の死がどのくらいショックだったのか、これは言葉で語ることのできない大きさだ。自分にとって初めての死が祖父母といった肉親ではなく、大親友だった。そう表現したら、わかりやすいかもしれない。それまで服部が暮らすアメリカは自分にとっても憧憬の対象だったが、一夜にしてアメリカへの憎しみが最大になる。絶対にアメリカを許せない、そんな苦しい思いを抱えていたが、大学1年生の春に、その大嫌いなアメリカに行く機会が否応なしに巡ってくる。

 この事件は日々メディアで大々的に取り上げられ、もはや服部と加害者2人の問題ではなくなっていた。日本国内ではアメリカに対するバッシングが日増しに強くなり、日米間の国際問題に発展していた。そのような憎悪のスパイラルを止めるべく、有志によってアメリカと日本の相互理解を深めるための交流事業が企画された。その一環として、服部の家族や友人、学校関係者数名が彼が射殺されたルイジアナ州に行くことになったのだ。「服部が殺されたアメリカなんて、一生行くものか」と事件以来、誰よりも強く決意していた自分に白羽の矢が立つ。アメリカへの交流事業は自分ではなく他の人が行けばいい、と思っていたのだが、出身の愛知県立旭丘高校は男子の浪人率が8割。ラグビー部仲間は皆、一浪中の受験の真っ只中で自由の身である大学生は自分しかいなかったのがその背景だ。初めての飛行機、初めての外国。服部がたどった軌跡を巡る10日間のアメリカ旅行では彼の通っていた学校を訪問したり、ルイジアナ州の名誉知事になったり、現地の大学のMBAコースを見学したりと、訪れるところすべてで歓待を受けた。とても良い経験だったのだが、ここで大きな衝撃を受ける。大学受験の模試では常に全国トップレベルだった自分の英語が何一つ通じない。喋りたいのに、ほとんど何も話せない。英語への自信が一気に崩れた。

 

初めての留学はアメリカへ
不完全燃焼で終わった1年間
 

 ルイジアナでは皆に親切にしてもらったのに、自分は何も話せなかった。これは強烈な原体験で、大学時代に1年間留学しようという強い動機となった。留学の目的は話す英語力の取得だったので、留学する大学のレベルは問わない。とにかく入りやすい大学に行けば良いと考え、大学2年生からTOEFLの勉強を始め、2年生の終わりから1年間、ワシントンにある大学に通うことになった。ここで猛勉強をしたと胸を張って言いたいところだが、渡米後すぐに運命の日本人女性に出会ってしまい、5日目から彼女と同棲を始める。彼女と結婚し、今でも幸せな生活を送っているので、人生を長い目で見れば最高の判断ではあったのだが、英語力の向上という意味では最悪のスタートだ。彼女と過ごした最初の3ヶ月間は英語ではなく、日本語のほうがが上達するのではないかという生活。彼女が帰国した後は気持ちを入れ替え勉強に専念したものの、大学を選ぶ時にアカデミックレベルを重要視しなかったために、大学の授業そのものが面白くない。

 海外でもとりあえずは生活できて、自由に意思は伝えられるという中途半端な状態で日本に帰国。目標をイマイチ達成できない後悔とコンプレックスを引きずり、またいつか学業で切磋琢磨できるような留学したいという希望を胸に秘め、就職をした。

 

オックスフォード大でMBAを取りながら、
ソーシャルビジネスに身を捧げる
 

 新卒で就職したメガバンクは5年で辞め、AP(Advantage Partners)という日本初のプライベート・エクイティ・ファンドに転職。そこは自分以外のほとんどが世界のトップ・ビジネススクールを出たような精鋭揃い。近いうちに海外のMBAに挑戦しようと考えていたが、先輩たちにMBA留学などせず、今の会社で経験を積み重ねたほうがいいとアドバイスを受けたことで踏みとどまっていた。同時に仕事の内容がハードすぎて日々、睡眠時間もろくに確保できないような毎日を過ごすようになり、MBAどころではない現実も横たわる。そんな時、APが世界的なファームを目指すというビジョンを掲げ、香港オフィスを開設した。次はいよいよニューヨークかロンドンに進出かという機運が高まってはいたが、会社にはアメリカでMBAを取った人材は多くいるものの、ヨーロッパに縁のある人がいない。ロンドンにオフィスを出すのであれば、イギリスのMBA出身者が抜擢されるだろう。これは、チャンスだ。いずれはAPヨーロッパのカントリーマネージャーにという野心を持って、オックスフォード大学へのMBA留学を決めた。

 

オックスフォード大学のMBAで知る
ソーシャルビジネスの醍醐味
 

 イギリスに飛ぶ飛行機の中で、偶然にも社会起業家ジョン・ウッド著の“Room To Read”を読み、深く感銘を受ける。その時まで、ソーシャルビジネスに全く関心がなかったが、ビジネスで成功した次に、社会を変える使命を持って働いた彼の半生を知り、自分もこんな風に生きてみたいと強く感じた。ファイナンスが強いから、という理由でオックスフォード大学のMBAを選んだのだが、実はオックスフォードの二大看板は「ファイナンンスとソーシャルビジネス」。機内で読んだ本のテーマが、突然自分の人生において大きな意味を持つこととなった。

 当時リーマンショックの影響を受け、面白いインターンのプログラムが見つからず、どうしたものかと悩んでいた。そんな時にアイルランド発の「ブラストビート」というNPO法人に出会う。大学で行われたプレゼンテーションで彼らが提供する音楽を使った子供向けの社会教育というプログラムを知り、震えるほどに感動。いてもたってもいられなくなり、会場を後にしたその足で、ブラストビートの創設者のホテルに押しかけ、インターンをさせて欲しいと直接交渉。大学の試験期間中もブラストビートのことを考えたら眠れなくなり、3日もの間、何も手につかない。念願が叶い、彼らのコンサルプロジェクトに携わるうちに、ますますこの仕事が面白くなる。沼にハマったようなものだった。

 ブラストビートは当時、大きな問題を抱えていた。夢を語るから補助金は集まる、でも金を稼げない組織だったのだ。サステイナブルじゃない仕組みに頼っていた組織内の財務や構造改革を自分自ら旗を振ってやり遂げ、その成果をもってブラストビートの日本展開への許可を取り付ける。MBAコース卒業と同時に、ブラストビートの日本上陸を計画。イギリスのマニュアルは捨てて日本独自のやり方で、ブラストビート・ジャパンをゼロから作り、活動を開始した。一時は、APの仕事を夜中の1時までやり、その後3時までブラストビートの仕事をするというような無理を重ね、若さと体力に任せて、どちらが本業かわからないくらいブラストビートに捧げた。

 2011年、「ココナラ」の創業準備に集中するためにブラストビートを離れたけれど、今でも理事として緩やかに関わっている。ブラストビートの創業者の通訳をやったり、彼と喧嘩のような議論を重ねたり……ブラストビートに深く関わり、熱く過ごした日々は今では良き思い出だ。(後編に続く)

【文】黒田順子

【その他のグローバルリーダー・ストーリー】
Vol.1 岡部恭英(UEFAチャンピオンズリーグで働く初のアジア人)
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Vol.3 外山晋吾(国境を超えるM&A後の統合プロセス(PMI)のプロ)
Vol.4 萱場玄(シンガポールの会計事務所 CPAコンシェルジュ 代表)
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Vol.6 小西謙作(元キヤノン 東南アジア/南アジア地域統括会社 社長)
Vol.7 玉木直季(「人が喜ぶ人になる」英国王立国際問題研究所(Chatham House)研究員)
Vol.8 小野真吾(三井化学株式会社グローバル人材部 部長)
Vol.9 廣綱晶子(欧州留学/欧州MBA/就職・キャリア支援のビジネスパラダイム代表・創立者)
Vol.10 間下直晃(株式会社ブイキューブ 代表取締役会長 グループCEO)
Vol.11 永井啓太(ビームサントリー エマージング アジア ファイナンス&戦略統括)
Vol.12 河崎一生(Japan Private Clinic院長、CareReach, Inc. Founder & CEO)
Vol.13 上澤貴生(DMM英会話創業者、元CEO)
Vol.14 南章行(株式会社ココナラ創業者、取締役会長)後編
Vol.15 原田均(シリコンバレー発のスタートアップ Alpaca DB, Inc. 共同創業者兼CPO)

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