“Global Leader Story“ vol.18 末松 真人
株式会社ADKマーケティング・ソリューションズ 執行役員
日本で生まれ育ちながらも、グローバルな仕事環境で大活躍するリーダーの軌跡とマインドを発信するグローバルリーダー・ストーリー。
18回目のグローバルリーダーは、大手広告会社であるADK(旧アサツーディー・ケイ)のタイ現地法人の会長を経て、25年4月よりADKマーケティング・ソリューションズで執行役員を務める末松真人氏。早稲田大学卒業後、1999年に東急エージェンシーに入社。2004年にADKに転職。2015年からシンガポール駐在&ナンヤンEexecutive MBAプログラムに参加。2019年にADK globalのChief Strategy Officer、2021年にADK Thailandの社長、2024年に会長に就任。25年4月より現職。(2025年4月時点)
父は日本のメーカーに勤務する会社員で、彼の転勤に伴い色々な土地を転々としていた。海外転勤に帯同したことはなく、この記事を読む多くの方々と似たような普通のバックグラウンドだと思う。中学3年の11月に関東地方へ移り、一浪を経て早稲田大学の理工学部建築学科に進学した。学生時代は勉強よりもアルバイトに夢中になって留年も経験している。
アルバイト三昧の生活をしていたら、気がつけば就職活動の年になっていた。入学した時には建築を学びたいという意思はあったものの、就職活動時には建築を通して何かを創造する仕事に対して、具体的なイメージが湧かなかった。友だちの影響でパイロットを目指すことにしたものの、1999年というのは就職超氷河期のど真ん中。航空業界の採用中止もあり、パイロットへの道も諦めざるを得ない状況に陥った。その時点で大学4年の11月。ほとんど全ての企業の選考活動が終わっており、新卒扱いで働ける見込みはゼロ。どうしたものかと悩んでいる時に、広告代理店で働く先輩から聞いた、クリエイティビティを活かした仕事に興味を抱き、卒業を一年遅らせて中規模広告代理店に就職。そこから5年間、セールスのプロモーション部隊の一員として働いた。
無我夢中で取り組んだ巨大プロジェクト。
仕事人生が大きく変わる時
大口クライアントだった大手流通企業チェーン企業の消費者向けキャンペーンの企画やイベント企画に携わっていたものの、業績の悪化に伴い社内の雰囲気が大きく変わりつつあるのを感じていた。ちょうど30歳を目前に控えたタイミングだったこともあり、自分がもっと前向きに仕事に取り組める環境を求めて当時のアサツーディー・ケイ(現ADKマーケティング・ソリューションズ)に転職。その後はマーケティング/ブランディング/コミュニケーション戦略プラニングの仕事に没頭し、馬車馬のごとく働いた。どんなに苦しいことがあっても、乗り越えることができたのは、身体だけでなくメンタルの鈍感力が誰よりも強かったからからだと思う。そんな中でも最も印象に残っているのは、大手化粧品メーカーのキャンペーン。全社をあげて取り組むそのプロジェクトに携わることできて、自分は幸運だったと思う。このプロジェクトを最後までやり切ると同時に、会社からの評価がぐっと上がった実感があった。
海外MBAへの挑戦。
2年かけて英語をゼロから独学する
38歳の時、目をかけてくれていた役員から「海外で勉強してみないか」という話を突然にふられた。当時、ADKの筆頭株主だった英系企業と本社の橋渡し役だった役員が、その役割を共に担う人材を探している中で、自分に白羽の矢が立ったらしい。それまでも海外でMBAを取りたいと自ら名乗り出る意欲のある社員はいたのだが、ビジネススクールに派遣しても、卒業後に会社に貢献する人材が育たなかった。そこで「ビジネススクールに行きたい」と自ら名乗り出る社員にMBAを取らせるより、全くその意向がない、しかし会社へのロイヤリティが高い社員に挑戦させるほうが良いのではないかという仮説に基づいた人選だったと後から聞いて、思わず苦笑した。
実は海外を舞台にして働きたいという意欲はゼロだった。もっというと、英語が苦手だったから、英語を使う必要のある仕事は、できれば他の人にやってもらいたいと思うほど消極的だった。だから、この話を聞いた時には、即答ができず、決断までに一晩の猶予をもらった。これまで大きなプロジェクトを任され、クライアントに貢献し、実務能力への自信はある。MBAを取得したら、もっと会社全体にインパクトを与えるような仕事に携われるようになるだろう。しかし、英語に関しては不安しかない。そこで上司に「海外MBAに相応しい英語のレベルに到達するまで、しばらく時間がほしい」と交渉した。2年後に自分の英語の仕上がりを見て、ビジネススクールに通わせる資質があるか客観的に判断してもらうのが、会社にとっても自分にとっても最善であろう。そこから多忙を極める仕事に加えて、英語の猛勉が始まった。
英語の勉強に関しては、フォーマットのようなものを作った。まず通常より1~1.5時間半早く出社してオンラインの教材を使って勉強をする。そして仕事が終わると、また1~1.5時間を英語の勉強に費やす。一日あたり計3時間の勉強時間を捻出し、それを約2年間続けた。このモチベーションは、ひとえに会社へのロイヤリティからきている。会社に貢献をし、良くしたいという思いが強かった。人生で初めてといっても過言ではないほど、真剣に勉強した。もちろん2年くらいでは英語が完璧に仕上がることはないのだけど、海外ビジネススクールに入学する程度の英語のレベルまでは辿り着けるのではないかという目論見だった。
仕事と大学院と二足のわらじ。
根性で乗り切ったシンガポール生活
約束の2年が過ぎ、TOEFLで一定の点数が取れるようになったところで、出願。出願先はシンガポールのNanyang Technological University(南洋理工大学、通称NTU)のビジネススクール。ADKがアジアでのビジネスを展開するのに相応しい場所にあること、当時ADKのアドバイザーを務めていたバーンド・H・シュミット教授というマーケティング界では世界的に著名な教授がNTUで教鞭をとっていたことが、NTUを選んだ理由である。
プログラムは社会人エグゼクティブ向けのExecutive MBAを選んだ。期間は約1年半。その間ずっと授業があるわけでなく、約3ヶ月ごとに2~3週間ほどのモジュールで構成された授業に参加する。授業のある時に朝から晩までみっちり学ぶ。モジュールとモジュールの間は、仕事に集中できる。入学とほぼ同じタイミングでシンガポールの駐在員として働くことになったので、仕事をしながら通学できることが魅力的だった。
初めての海外生活だったので、仕事を回すだけでも大変だったのに、英語で展開されるビジネススクールの勉強もしなければならい。かなり辛い時もあったけれど、会社が自分に期待をして送り出してくれていることを思ったら、途中で投げ出すわけにはいかない。責任感と会社に貢献したいという強い意思を持って、根性で乗り切った感がある。授業で学んだことが、すぐに実務で活かせるという点が、Executive MBAの最大のメリットだったように思う。特にシンガポールをベースに、アジアの拠点に出張し、各国でクロスカルチャーを肌で感じることができ、自分の視野も大きく広がった。
タイの現地法人の社長へ。
リスクより大きな希望を抱いて荒波に飛び込む
ビジネススクール卒業後、東京に戻って3年間は日本本社で勤務、海外事業の戦略担当に。海外の事業戦略の責任者ということで東京から海外の数多くの拠点を訪れた。この期間を通し、ADKのグローバルビジネスをより深く知ることができたと思う。そして次のステップとなる、タイの現地法人の社長に就任。
タイ現地法人は、特定の業種、特定のクライアントを中心に築き上げてきたユニークなビジネスモデルが長年うまく機能していたのだが、どんなビジネスモデルでもそうであるように、そのモデルにも終わりが近づいていた。そんなタイミングで投入されたのが自分だった。
既存のビジネスモデルを転換するという明確なミッションが課された。困難が予測されているけれど、自分が成長する千載一遇のチャンス。これまでの仕事人生を振り返っても、自分は自分に負荷をかけて成長するタイプだから、きっと良い結果が出せるだろう、と希望を持って荒波に飛び込んだ。冷静に考えれば、リスクはかなり大きかったはずだが、その時はリスクより、それを上回る大きなリターンを夢見ていた。
実際、就任から最初の2年間は、極めてチャレンジングだった。大成功したひとつのビジネスモデルが終焉を迎えていく中、そこに追い討ちをかけたのが新型コロナウイルスの感染拡大。外出規制がかかり誰も外出しないから、リアルで人を動かすイベントなどの需要などが下がり、急激な業績悪化に直面した。
業績回復への途上。
仲間と分かち合う夢と希望
そこからどうやって回復するのか。大きかったのは、タイ人の信用できるリーダーを据え、彼と信頼関係を築き、役割分担をしっかりと決めたことだと思う。当時200人を超える社員のほとんどはタイ人。この難局において、タイ語でしかコミュニケーションの取れない社員も多く含まれる会社を自分だけでまとめて、叱咤激励することはできない。そこで頼りになったのがADKタイ現地法人で約20年働いてくれているタイ人のリーダー。自分が描いた経営戦略や事業戦略を、彼を通じて社員に落とし込んでもらう。彼もまた、さまざまなビジネス経験を重ねているタフで優秀なリーダーだったから、共に働くにあたって最初にこう伝えた。「俺たちは友達であり、兄弟である。社長という立場に遠慮をせず、自由に議論もできる関係でいたい」と。できる限り、フラットな人間関係を心がけた。
国籍の違う2人が、会社の上にたち組織を取りまとめるにあたり、苦労もあったし、頭にくることもあった。しかし、その度に難局を乗り越えた先にある、自分の本当にやりたいことは何なのか、何のためにやるのか、に常に立ち戻った。彼と共に決めた共通のゴールは「社員全員にボーナスを出す」というもの。3年目に予算達成を果たすことでついにこの願いが叶い、それまでの苦労が報われた。
予算達成を社員と祝う
4年弱のタイ現法勤務時代を通して「さすがにまいったなぁ」という時もあったけれど、ADKの懐の深いカルチャーに救われたこともある。現地法人が業績悪化に苦しむ中で、辛抱強くサポートしてくれた会社には感謝している。商社やメーカーと違って、広告会社では海外駐在はキャリアパスの王道とは言えないかもしれない。しかし、小さいながらにも海外現地法人の上に立ち、ローカルスタッフと二人三脚で経営に携わった経験は本社での経営やグローバルビジネス拡大に役立つだろうと考えている。
【文】黒田順子(2025年4月執筆)
*末松氏は2025年4月より、ADKマーケティング・ソリューションズの執行役員に就任しグローバル・プロジェクトを管掌
Aun Communication のコメント:
末松氏のストーリーには、いくつもの「壁」と「転機」が登場する。印象的なのは、それらを自分の糧として“意味づけ”し直す姿勢。語学の壁も、業績不振も、経営の責任も、そのままでは「困難」だが、氏はそれらを「自分の成長を促す機会」としてリフレーミングしてきたように感じる。
「今ある環境を、自分の成長の舞台として受け止められるか」という姿勢こそが、日本生まれ日本育ちのビジネスパーソンがグローバルで活躍する鍵ではないだろうか。
【その他のグローバルリーダー・ストーリー】
Vol.1 岡部恭英(UEFAチャンピオンズリーグで働く初のアジア人)
Vol.2 岡田兵吾(Microsoft Singapore アジア太平洋地区本部長)
Vol.3 外山晋吾(国境を超えるM&A後の統合プロセス(PMI)のプロ)
Vol.4 萱場玄(シンガポールの会計事務所 CPAコンシェルジュ 代表)
Vol.5 内藤兼二(アジア11拠点で人材サービスを展開する「リーラコーエン」グループ代表)
Vol.6 小西謙作(元キヤノン 東南アジア/南アジア地域統括会社 社長)
Vol.7 玉木直季(「人が喜ぶ人になる」英国王立国際問題研究所(Chatham House)研究員)
Vol.8 小野真吾(三井化学株式会社グローバル人材部 部長)
Vol.9 廣綱晶子(欧州留学/欧州MBA/就職・キャリア支援のビジネスパラダイム代表・創立者)
Vol.10 間下直晃(株式会社ブイキューブ 代表取締役会長 グループCEO)
Vol.11 永井啓太(ビームサントリー エマージング アジア ファイナンス&戦略統括)
Vol.12 河崎一生(Japan Private Clinic院長、CareReach, Inc. Founder & CEO)
Vol.13 上澤貴生(DMM英会話創業者、元CEO)
Vol.14 南章行(株式会社ココナラ創業者、取締役会長)前編
Vol.14 南章行(株式会社ココナラ創業者、取締役会長)後編
Vol.15 原田均(シリコンバレー発のスタートアップ Alpaca DB, Inc. 共同創業者兼CPO)
Vol.16 岩崎 博寿(オックスフォード在住の起業家・Infinity Technology Holdings 社長)
Vol.17 水谷安孝(Coltテクノロジーサービス アジア太平洋地域 社長)
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(お知らせ)
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